芸能の雑学・豆知識

テレビ・映画や、音楽、舞台・劇場、芸能人についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています

なぜラストシーンのチキには翼が無いのか?長文で考察【映画『チキチキバンバン』】

研究1.映画の深層に隠されたもの

2時間26分にも渡って繰り広げられる楽しさいっぱいの『チキチキバンバン』。しかしその楽しさの奥にはよくよく考えると深い寓話が隠されています。その秘められたお話を読み解いて行きましょう。

 

 「なぜラストシーンのチキには翼が無いのか?」

映画『チキチキバンバン』の魅力って、もちろん、夢の車チキチキ号が一番なんだけど、その他にも、どれをとっても個性豊かな登場人物たちとか、それからもちろんすばらしい音楽とか、もう限りなくありますよね。

 

その中で特に感心してるのが、これが夢のお話でありながら、決して現実を切り離してないところなんですよ。

よくよく観ていくと細かいお金の話が最初から最後までついて回ってます。

 

一見、珍妙で荒唐無稽そうに見えるポッツさんの珍発明も、実は作品世界中(1910~20年頃?)の最先端で、ポッツさんが単なる「夢見る夢男」くんじゃない、単に売り込みに弱い実力のある発明家だったことが解ります。

なかなか気付きませんが、実はこの映画って時代考証がけっこうしっかりしてるんですね。

さすが007スタッフが作っただけのことはあります。

 

映画の最大の魅力であるチキチキ号の奇想天外な冒険は全てポッツさんの空想したお話だし、実はけっこうシビアなストーリーなんですよね、これ…。

 

トゥルーリーと相思相愛でありながら、相手が金持ちなのにめげて、コソコソ逃げ出したポッツさんは最後に大金を得ます。 その時の独り言の「初めて本当の発明ができた」つうのも涙を誘いますよねぇ…。

それで喜んだポッツさんは契約書にサインもせずに(その辺がやっぱ甘ちゃんなんですが)、チキをとばして大急ぎでトゥルーリーの元へ駆けつけプロポーズします。

(たぶん、そんなことに関係なくトゥルーリーはOKしてたでしょうけど… )

そして二人はチキに乗ってドライブに出ますが、運転しながらポッツさんは「男は時には夢を見るのもいいが、現実に向き合わなければいけない」と言います。

 

ここから考えても、やっぱ、彼、最初の花火飛行の時ちゃんと防火服を着込んでたりもするし、まるで子供みたいでも細かいことまでちゃんと考えていて、ただ、お金を稼ぐ才能が決定的に無い人なんでしょうね。

そのポッツさんが最後にようやく「責任の持てる一人前の男になった」という自信を持つわけです。

 

するとチキはそれに応えるようにいつの間にか飛び上がり、二人はそのまま空へのハネムーンへと旅立って、映画はフィナーレを迎えますが、一つ気になるのは、この時のチキチキ号は翼を出していないことなんですよ…。

 

これは単なる合成ミスかもしれません。でも最後の見せ場であるフィナーレにミスは考えにくいし、ひょっとして「翼がある→空想」「翼がない→現実」ってことで、違う意味を持たせてるのかもしれないけど、どうもよく、意味が読みとれない……。

これが単に「経済力があれば現実でも何でもできる」ってことならシビアすぎてユメもチボーも無いんですけど、「夢」を大切にしてるこの映画でそれは考えたくないし…。 やはり、謎です……。

この謎を解くために、映画『チキチキバンバン』をいろんな角度から深く考え直してみましょう。

 

チキチキバンバンの登場人物におけるフレミング効果と、その「深層」について

イアン・フレミングの作品を鑑賞するときに出てくるキーワードの一つに 「フレミング効果」というものがあります。

これは彼のネーミングセンスの秀逸さを差して言うことなんですが、007シリーズの敵やボンドガールの名前に顕著に現れてます。例えばゴールドフィンガーとかソリテアとかティファニー・ケイスとか、実際にはありえないけど、その人物にピッタリの名前を付けることはフレミングの得意技でした。

では、同じフレミング原作の『チキチキバンバン』ではどうか、主要登場人物の名前について調べてみましょう。

 

まずは、カラクタカス・ポッツですが、カラクタカスというのは ローマ帝国時代のブリタニアの英雄のようで、英国の作曲家エルガーがカンタータを書くほどの有名人。

POTTSの方はPOTの複数形でいろんな意味がありますが「偉い人」という意味もあるようだし、大金とか麻薬という意味もあるんで、 ここはやっぱ偉い人とか大金を差してるんでしょう。

つまりカラクタカス・ポッツとは「英雄&大金」という、勇ましいけど実際のポッツさんとは全然違う名前なんですね。

これはリバース・皮肉の意味でのフレミング効果でしょう(笑)。

そしてこの名前はジェームズ・ボンドのリバースでもあるんですよ。

 

ジェームズ・ボンドは実在の鳥類学者の名前で、フレミングがその本を持っていてそこから頂いたのは有名です。

でも詳しく解析すると、ジェームズはキリストの12使徒のヤコブとか、スチュアート王家の王様でやはり偉人の名前であり、 ボンドは「契約」とか「借用書」なんですね。つまり「偉人&借用書」(笑)。

 

「英雄&大金」と「偉人&借用書」、見事に対比になってて、裏ボンドしてるでしょ?

このへんもフレミング効果満点かな(笑)。

 

 

続いてトゥルーリー。歌にもあるようにトゥルーリー・スクランプシャスとは「本当にステキ」という意味ですが、耳慣れぬscrumptiousという単語の語感を探ってみると、 これはscrump・tious と分けることができ、scrump [skrmp]は「(果物を)木から盗み取る」という意味だそうです。

 

この単語をさらに語尾変化させると、 scrump・yで「(イングランド南西部産の)強いリンゴ酒 」の意味が出てきて、scrump・tious だと「すてきな, おいしい」という意味になります。

 

つまりトゥルーリー・スクランプシャスって 「本当に美味しそうな(盗み取られた果物)娘」(笑)で、資本家たるお菓子会社の社長令嬢にいかにもふさわしい、フレミング効果満点の名前なんですね。

ジェレミーとジェマイマの二人がトゥルーリーに捧げる歌「すてきなトゥルーリー」で

やたらお菓子のことばっか言ってるのも、別にお菓子に飢えてたんじゃなくて、子供らしく素直だったんですよ。

 

で、「美味しいもの」って子供には第一にお菓子になるんでしょうけど、子持ちの成人男性のポッツさんにはチョット意味が違ってきます(笑)。

そう考えていくと、ボンバースト城でポッツさんとトゥルーリーの二人が掛け合いで歌う「オルゴールの人形~すてきなトゥルーリー」って、とっても意味深でエロティックな求愛の歌になるんですよね。

 

「オルゴールの人形~すてきなトゥルーリー」の歌詞を 簡単に訳してみました。

 

トゥ「私ってどう見えるのかしら?」
ポ 「とっても美味しそう」
トゥ「私をじっと見ているあなた…」
ポ 「キミは本当にチェリーとピーチのパフェみたいに美味しそうだよ…」
トゥ「私はゼンマイ仕掛けのお人形なの…」
ポ 「キミの近くにいると、ホントウに食べちゃいたくなる!」
トゥ「恋人のファーストキスをずっと待ってる魔法にかけられた私に、
   あなたはどんな言葉をかけて下さるのかしら…」
ポ 「誓って、キミはボクの望むものすべてだ!」
トゥ「あなたには見えてないのよ…」
ポ 「ほんとうにステキだ…」
トゥ「どんなに私が自由になりたいのかが…」
ポ 「ボクは強引かもしれないけれど…」
トゥ「オルゴールの上でゼンマイ仕掛けで回り続けながら…」
ポ 「絶対、どこへも行かないでおくれ…」
トゥ「憧れて…」
ポ 「ボクのハートはドキドキしっぱなし…」
トゥ「憧れ続けて…」
ポ 「キミを本当に愛しているから…」
トゥ「回り続ける間ずっと…」
ポ 「心から、キミを愛してる」

 

つまりは子供に聞かせるおとぎ話の中で、ポッツさんはトゥルーリーにチャッカリと求愛しちゃってるんですね。

しかもかなりエロティックに(笑)。

で、スクランピーつうのがリンゴ酒だったことを考えると、ポッツさんはポットさんで、それを注ぐ容器だし、リンゴからアダムとイブまで連想しちゃったら、 この二人の関係はますますエロティックになります(笑)。

たぶん、イギリスのお父さんお母さんは、このシーンを鑑賞しながら、ニヤニヤしっぱなしなんでしょうねぇ…。

ポッツさんとトゥルーリーの名前に秘められた意味を明らかにした後は、いよいよ深層心理に入っていきます(笑)。

ポッツさんとトゥルーリーのエロチックな求愛の歌に関して、ここでもう一つ気になるのが、トゥルーリーが自分のことを 「ゼンマイ仕掛けの人形で自由がない」と歌っていることです。

(厳密に言うとポッツさんの空想ですが、細かいことはパスw)、

この作品では、ボンバースト男爵とスクランプシャス卿は表裏、というより男爵は、深層心理下における父親の姿なんだと考えられます。 その証拠に、二人とも強引で太っている上に、卿もオモチャ好きなことは最後に解るし、さらに菓子工場と城の内装のイメージが近代的か中世的かの違いはあれどそっくりだったじゃないですか?(笑)

男爵役にゴールドフィンガーのゲルト・フレーベを持ってきたということは、トゥルーリー(とポッツさん)は卿のことを「金の亡者」的に内心では思っていた可能性もあります…。

そもそもbomburstって「爆弾ドッカ~ン!」くらいの意味で、まさにスクランプシャス卿が最後の方で、ポッツ爺ちゃん相手に叫んでるそのセリフと同じようなものだし。(笑)

スクランプシャス卿は娘には甘いようですが、それでもワンマンなのは劇中で語られてます。

あんな秒単位で人を縛る父親の側にいれば トゥルーリーが「自由になりたい」と思うことは当然です。

しかも、彼女の歌う「さびしがりやのあなた」の歌詞から考えると、どうも父親の眼鏡にかなうたくさんの退屈な男たちに引き合わされてウンザリしてたみたいだし(笑)。

このようにボンバースト男爵が父親の象徴ということは、ボンバースト男爵夫人というのは母親の象徴なんですね。

それもたぶん、トゥーリーだけじゃなくジェレミーとジェマイマのも兼ねた…。

「子供嫌い」ってのはジェレミーとジェマイマの母のイメージと思います。二人の母親が死別で子供を愛してたなら、二人はその面影を今でも慕ってるだろうに劇中に全然出てこないところから考えて、たぶん、ポッツ夫人は、夫ともども子供たちにも愛想尽かして出て行っちゃったんでしょう…。

だからポッツさんにもトラウマになって、お伽話の中にその要素を無意識に入れちゃったんじゃないでしょうか…。

そう考えると子供たちやポッツさんがトゥルーリーに歌いかける「絶対どこにも行かないでくれ」って言葉には涙がチョチョ切れます…。

トゥルーリーの母親はどうだったのかは解りませんが、彼女の正しいけれどキツ目の性格はまんま男爵夫人と重なるので、たぶんあんな感じだったんじゃないでしょうか?(笑) 

おそらくこっちは早く死んじゃったんで、トゥルーリーは愛情表現がうまくない娘に育っちゃったんでしょうねぇ(笑)。

 

男爵と男爵夫人の夫婦仲は、仲良いようでケンカするビミョーな関係です。

二人で「チュチ・フェイス」を歌いながらじゃれていても、(しかも夫人はセクシーな下着姿で!)、男爵は男爵夫人を奈落に突き落とし、しかも夫人は別にそれを怒ってない。

前に夫人が空に飛ばされた時には、男爵は嬉々としてライフルで狙い撃ちしてたし、ミョーな関係です(笑)。

これは若い頃にはよく解りませんでしたが、なんのことない、リアルな夫婦の関係ってヤツですね。大人同士の仲の良さってこんなもんでしょう。

ひょっとしたら、かつてのポッツ夫妻のイメージ入ってたりして(笑)。

あの城にたむろしている貴族たちは着飾ってるけど美しくないし、この映画、ヘンなとこがリアルです(笑)。

 

そんなトゥルーリーが結局選ぶのが、オモチャ好きで強引な部分もある男のポッツさんで、つまり父親のイメージとそれほど変わらない人でした。

ただポッツさんは「稼げない」のと、そしてたぶん「女房に逃げられた」コンプレックスがあり、その自信の無さから来る「さびしそうな」ところが父親と違い、そこにトゥルーリーは惹かれたんでしょう。

結局、彼女もファザコンで、後で詳しく述べますが、車のナンバーが暗喩する「しつけのなってない子供」だったんですね。

でも、そのトゥルーリーも恋を知り、ジェレミーやジェマイマと 触れあうことで母性を呼び起こすこともできて、やっと精神的に大人の女性になれたんじゃないでしょうか?

 

こう考えてくると、最後にチキ号がポッツさんとトゥルーリーを乗せ翼無しで飛び上がるのは、「二人が一緒になることで様々なコンプレックスから解放されて完全になった」ということの比喩じゃないか? とも考えられます。

つまり空想の世界だけでなく、現実の世界でも飛躍できたということ。

もう二人には夢の翼なんか必要なくなったってことですね…。

 

 

と、まあ、一応の答えは出ました。

でもまだあのラストに関しては考えるべき点があるようです。

また他の角度からも研究して、考え続けてみましょう…。

 

 

幻のクライマックスシーンはなぜ撮影されなかったのか?

劇場公開時発売のパンフレットには幻のクライマックスシーンが記載されています。

「全部失ったことに気づいた男爵と夫人は飛行船で脱出を計った。

 しかしチキ号で追跡するお祖父さんの傘から飛び出した針が,

 飛行船をパンクさせ,男爵夫妻は湖の中に墜落してしまった。」

 

ユーモラスな中にも迫力があり、いかにもこの映画にふさわしいこのシーンが、なぜ使われなかったんでしょうか? 

武器を持つにはふさわしくないチキ号の行う空中戦としてはなかなか気が利いてるし、実際の映画にある「奈落に落ちてそのまま馬車檻に捕らわれる」っていう結末よりはスペクタクル満点だと思うのに…。

 

 

理由1…予算の都合→よくある話ですが、これはブロッコリ作品。金が無いなんてあり得ません。彼は制作費を惜しまないことで有名です。

理由2…技術的に不可能→これもよくある理由ですが、この映画でも後に『スター・ウォーズ』を担当するジョン・ステアーズを起用して特撮は多用されてるし、作風から言ってもあまりリアルな感じの特撮はいらないので考えにくいです。

理由3…傘はポッツさん製と考えられるので、最後の「初めて役立つ発明をした」というセリフと矛盾するから→夢のお話の中のことなので無問題だし、そもそもそれ気にするなら、チキはどうなるんでしょう?(笑)それに「コギンズにもらった傘が役に立った」とでも言わせれば、いい楽屋落ちにもなるってもんです。

理由4…ロケ中の事故で飛行船が墜落してしまい墜落シーンの撮影ができなくなったため。→パンフによると撮影途中で墜落しちゃったそうなので本当の理由はこれでしょう。でも、8時間分フィルムは回していたそうだし、映画に必要だと考えていたら再建するか、あるいは特撮オンリーでも、撮影は続けていたろうになぜ……。

 

 

この『チキチキバンバン』というお話は魔法の自動車の活躍を描くファンタジーであると同時に、エディプスコンプレックスに悩むニート君の自立を描いた人生劇でもあるんじゃないでしょうか?

いい年こいて、妻に逃げられ(推測)、父の家(これも推測)に住み、現実逃避ばかりしてロクな稼ぎのないポッツさんが、彼にできることでいかにしてお金を稼いで新しい奥さんを手に入れるかという人生の厳しさを、オブラートに包んでではあるけれど描いているんです。

だからその中で彼女に聞かせる夢の話として登場するチキ号の冒険においても当然、主人公はポッツさんでなければならない訳で、大人になれてないと自覚のあるポッツさんは、夢の世界でも、主人公の活躍を阻害しそうな要素、つまり大人の活躍をナチュラルに排除してるんですね。

ボンバースト男爵一派がみんな子供っぽいのもそのためでしょう(チャイルドキャッチャーだけは有能ですが、彼は人間というより一種のモンスターとして描かれてます)。

 

最初にポッツ爺さんがさらわれるのも、心の奥底では頭が上がらないと思っている爺さんが陥った危機を、自分とその手塩にかけた子供&チキ号が救うところを彼女に見せつけたいからで、別項で書いたようについでにポッツさんはキワドイ求愛の歌なんか捧げたりする小ズルイところも見せるので、ちゃんと計算はしている人なんですよね(笑)。

映画の構造が複雑なので見逃しがちですが、トゥルーリーがポッツさんを想って歌う「ひとりぼっちのあなた」ってポッツさんの空想の中の出来事です。つまりあれはポッツさんの願望なんですね(笑)。

このあたり中年男の厚かましさ全開だけど、トゥルーリーもイヤがってはなかったし、まぁ、いいとしましょう(笑)。

 

 

 

ポッツ爺さんの性格付けは典型的なジョンブル野郎のそれになってると思います。

こだわりが凄く、皮肉屋で、相手にケチ付けずにいられないけど、内心は親切で情にもろい(「栄光のバラに」は真剣に歌ってたしw)。 女性に対しては礼儀正しく、王室への忠誠も絶対。

 

それに対し、ポッツさんはまだ子供のメンタルでしょうねぇ…。

理想的なことを口にするのも、自分がそうでないコンプレックスの裏返しだろうし…。

私はあの家は爺さんの、もしくは先祖代々の持ち物で、そこに妻を迎え夫婦生活を営んでいたポッツさんはやがてあまりの子供っぽさから妻に逃げられ、今のあの暮らしになったような気がしてます。

たぶん、爺さんに軍隊から恩給が出ていて、それであの一家は暮らしてるんでないかと…。

ということは、あの家族の中で大人はポッツ爺さんだけなんですよ……。

 

 

そのいい例が冒頭の「ユー・トゥー」で、あの微笑ましいナンバーでポッツさんは子供二人といっしょに「三人いれば幸せ」と歌いますが、最初は「仲良くていいな」と思ったけど、家族構成が解った二回目の視聴からは「おいおい爺さんどうなるんだ」と思うようになりました。

ほんとに家長としての自覚があれば「四人」って歌うはずですよね~(笑) 。

だから、敵の親玉にとどめを刺す役目はポッツ爺さんではあってはならない訳なんですよ。

それだとポッツさんが爺さんを見返せない。

せっかく自分が目立つよう作り上げた舞台の一番美味しいところを爺さんに持って行かれちゃうわけでしょ?(笑)

 

 

ということで、幻のシーンはシナリオの段階では存在したのかも知れないけど、スタッフが途中で気づいて撮影されなかったんだと思います。

男爵夫人だけが湖に落ちるシーンがあるのは、その名残かも知れませんね?

 

それからラストで、ポッツ爺さんとスクランプシャス卿の子供丸出しの兵隊ゴッコをわざわざ挿入したのも、オヤジよりえらい卿に認めてもらった=もうオレはオヤジを越えた! ということの暗喩でしょう。

あそこでやっとポッツさんがトゥルーリーにプロポーズする気になったのも、お金が手に入ったと同時に、やっとエディプスコンプレックスから解放されたからなんでしょうね(笑)。

 

だからラストの翼無し飛行は、そういうポッツさんの「晴れ晴れとした宙にも昇らんとする気持ち」の象徴とも考えられますね。

 

『チキチキバンバン』が執筆された本当の訳を探る(ボンドとチキの深い関係)

ジェームズ・ボンドの本当のただ一度の結婚が悲劇に終わったことはボンドマニアなら熟知のことです。

ボンドの花嫁、本名テレサ自称トレーシーだった女性は、式の直後にブロフェルド一味に惨殺されてしまいます。

その愛情と惨劇の様子が書かれた原作の『女王陛下の007』が発表されたのは1963年ですが、その続きの『007は2度死ぬ』とこの『チキチキバンバン』の発表がどちらも同じ1964年なのは偶然でしょうか?

 

アルプスに雪が降らずスキーシーンの撮影が困難となった結果、映画化の順番が逆転し、トレーシーと出会う前の話になってしまって、日本までロケットを追って来て忍者合戦を繰り広げることになった派手な映画とは違って、原作の『007は2度死ぬ』は、トレーシーの死で精神的に追いつめられたボンドに、いわばリハビリとして日本での楽な仕事を与えたところ、その黒幕がトレーシーを殺したブロフェルドだと解ったために陰惨な復讐戦となるというストーリーなんで、もしかしたらフレミングとしても精神的バランスを取るために、ボンドが幸せな家族を持ったパラレルワールドでのお話を書く必要があったんじゃないでしょうか?

ジェームズ・ボンドとカラクタカス・ポッツという名前についてはすでに検証済みですが、表裏の関係にあります。

映画では肩書きの無いポッツさんも、原作ではちゃんと元海軍中佐になっているんですよね(笑)。

 

しかし、こう考えてくると、1966年頃のアルプスの雪不足は 映画界にけっこう大きな影響を与えたんですねぇ…。

ちゃんと雪さえ降ってれば『女王陛下の007』がショーン・コネリー主演で映画化され、マンガ的になってたボンドに嫌気がさしていたコネリーも降りるとは言わなかったろうからレーゼンビーの2代目ボンドは登場せず…、さらにその辺のトラブルで製作期間が空くことも無かったろうから、『チキ』の映画化も実現しない。

もし後年に映画化されたとしても、『2度死ぬ』つながりのロアルド・ダールは脚本をやってないだろうから、もっと原作よりの内容になって 今、我々が愛する『チキチキバンバン』とは別物に なっちゃってたでしょうねぇ…。

 

 

『2度死ぬ』のコネリー、『チキ』のディック・ヴァン・ダイク、それから『女王陛下』のレーゼンビーのスチルを並べて見ると、カラクタカス・ポッツがけっこうボンドしてることに気づきます。

ひょっとして、コネリーの後ガマにレーゼンビーが決まった理由の一つは、ディック・ヴァン・ダイクのイメージが製作陣の深層心理に残っていたせいだったとしたら面白いですね!(笑)

 

また、映画でチキの残骸を持ってたのはQ(を演じたデズモンド・リューウェリン)なので、ボンドマニアにとってはチキは準ボンドカーなのですよ(笑)。 チキのミニカーも、ボンドカー(アストンマーチンDB5)と同じコーギーから出ていたし…。

 

チキとボンドとサンダーバードの意外な関係

『チキチキバンバン』が製作されたのは1967~8年頃ですが、ちょうどその頃イギリスでは、かの『サンダーバード』のオリジナル版も製作され空前の人気を誇ってました。

『サンダーバード』と言えば、今日では「スーパーメカによる人命救助」的側面ばかりが取り上げられますが、実は「スパイ活劇」も大きな要素で、レディペネロープは女性版007なんですね。

実際、国際救助隊をバックアップする中にMと思しき人物がいるし(笑)。

『サンダーバード』の制作者の一人でペネロープの声も演じたシルビア・アンダーソンの自伝『メイキング・サンダーバード』によれば、それが認められたのか1969年に007の制作者の一人であるハリー・サルツマンからボンド映画の制作を持ちかけられたそうです。その真偽は今となっては分かりませんが、もし実現して、制作をサンダーバードのスタッフが手がけていたら、彼らはお遊びが好きなので、画面の隅にチキやFAB1のミニチュアがさりげなく置かれてたりしたかも知れませんね?(笑)

そのお遊びの実例としては、映画版『サンダーバード6号』クライマックスシーンで、崩壊するスカイシップ1の下を『ジョー90』に登場するサムズカーが走り抜けるのは知る人ぞ知る事実です。

実際にも007の特撮スタッフは個人単位だとサンダーバードのそれとけっこう重なりますので、この共同製作の話が実現してれば後々、かなりの確率で、お遊びの競演が見られたんじゃないでしょうか?

同じ人が創るんだから版権も問題ないことだしね(笑)。

 

FAB1というのは、レディ・ペネロープが劇中乗り回すピンクのスーパーロールスロイスで、日本ではペネロープカーとして有名です。 これは言わばレディス・ボンドカーになるわけですが(笑)、このミニカーはコーギーのライバル会社だったディンキーから発売されました。

まだ当時は「舶来」なんて言葉が生き残ってた時代だし、コーギーとディンキーの一連のマスコミシリーズは当時の少年たちにとっては憧れの的でしたね。メーカーは違ってもほぼ同じ大きさでボンドカーとチキとそれからFAB1等の精巧なミニカーが揃うんだから、もうヨダレものでしたよ。

コーギーは一時倒産して復活したんですが、ディンキーも早くに倒産し、FAB1はずっと入手困難が続いてました。

でも最近、復活したコーギーからめでたく新造形となって発売されています。こうして40年近く経ってやっと、イギリスが誇る義兄弟(姉妹?)とも言えるボンドカーとチキチキバンバンとFAB1が同じメーカーから出る訳で、長年のファンとしては感無量ですね。ボンドカーとチキも再販されてるので、3つ揃えることも可能です。

オリジナルに比べたら仕上げが落ちるので、気になる人はオリジナルを捜すしかないんですが(苦笑)。

 

『チキチキバンバン』に登場する車のナンバーには深い意味が込められてるんだと思います。

チキのGINIIというのも、「ジニー」でアラビアの女魔神(『可愛い魔女ジニー』のアレですよ)だという説もあるし…。

ちなみにトゥルーリーのあのステキなクラシックカーはCUB1で、これは何だろうと思ったけど、CUBには「肉食獣の子供」とか「不作法な子供」って意味があるんで、これに乗って子供たちと出会ったトゥルーリーは、真面目そうでステキな大人に見えても、中身は気の強い子供で(笑)、やがてはポッツさんを大好きになるということを暗示してると同時に、CUBI(カビー)とも読めるんで、これはプロデューサーのA・R・ブロッコリのニックネームでもある訳ですね(笑)。

また、CUB1のベースカーはロールスロイス・シルバーゴースト1907クーペなんで、ペネロープカーの遠い御先祖様となり、トゥルーリーもまた裏ボンド(ガール)だということになりますね(笑)。

  

なぜこの映画の監督はケン・ヒューズなのか?

この映画の脚本を手がけたのはロアルド・ダールとケン・ヒューズの二人ですが、彼らは前年に『007は2度死ぬ』の脚本(ダール)と、『007カジノロワイヤル』の監督(ヒューズ)を手がけてるんですね。

『カジノ~』の方は他社に渡った権利で製作されたパロディーなんで、いわば『チキチキバンバン』は真贋007のスタッフがガッチリ組んで作られている訳ですが、これは007正編の製作も手がけたアルバート・R・ブロッコリの太っ腹さの現れでしょうねぇ(笑)。普通、自分を悩ませた作品の監督なんか雇いませんって…。

昔、組んだことはあるとは言え、ケン・ヒューズって別にミュージカルに強い訳でもないのに(笑)。

『カジノ~』には5人の監督がいて、ヒューズがメガホンを取ったのは、同じアンナ・クエイルが出ている(Q役のデズモンド・リューウェリン、ゴールドフィンガー役のゲルト・フレーベの他に、実はもう一人007役者が『チキ』には出ていたんですね)、マタ・ボンドのパートだったようですが、あのシュールな演出から一転し、夢あふれる『チキ』を撮れるんだから、ケン・ヒューズは職人監督として有能な人だったんでしょう。

あと、ひょっとしてギャラが安かったのかも?(笑)

 

上の写真はNGシーンの伯爵夫人にとどめを刺すポッツ爺さん。

残酷だということで完成したフィルムからは削られた(大嘘)。

 

チャイルドキャッチャーの「謎」

バルガリア行きというのは映画オリジナルの展開で、当然、ボンバースト男爵やらチャイルドキャッチャーは原作に出てきません。男爵に関しては別項で書いてますが、ではこの魅力的な悪役、チャイルドキャッチャーというのはいったいどこから登場したキャラクターなんでしょうか?

 

映画の『チキチキバンバン』の脚本はロアルド・ダールとケン・ヒューズの共同名義になってますが、これはたぶん、ダールの草稿をヒューズがシナリオの形にしたんだと思われます。そう考える根拠はヒューズの他の仕事一覧で、この『チキ』以外はファンタジー色のある脚本の仕事をしていないからです。

一方、ダールは直前に『007は2度死ぬ』の脚本も担当したし、本来シニカルなファンタジーを書く作家です。

そのダールが1964年に書いた『チョコレート工場の秘密』という作品がありますが、実はここにその「秘密」がありました。

 

この『チョコレート工場の秘密』は児童文学として有名で、ロアルド・ダールの名をこの作品で知っている人も多いようですが、私は児童書の類は読んでないので知りませんでした(笑)。

あらすじはこうです。「貧しいチャーリー等、子供5人が招待されたチョコレート工場には秘密があった。

経営者のミスター・ウォンカは手にステッキを持ち、シルクハットを被って燕尾服を着込んだ紳士だが、謎の小人たちにチョコを作らせていたのだ。ウォンカは徐々にその裏の顔を現し、彼の言うことを聞かぬ子供は一人づついなくなっていく 。

 

どうでしょう、このミスター・ウォンカのキャラクターはチャイルドキャッチャーにそっくりだと思いませんか?

『チキチキバンバン』の脚本の依頼を受けたダールは製作のブロッコリから「ミュージカルにするので、原作よりもっと夢のあるお話にしてほしい」と頼まれ、原作ではチキを手に入れるお金を稼ぐ相手としてチラっと出るだけのスプランシャス製菓会社(フエ飴の売り込みにあっさり成功し、その契約金でチキを手に入れます)に自作のチョコレート工場のイメージを足してスクランプシャス菓子工場(とリバースのボンバースト城)を設定し、ミスター・ウォンカのキャラクターをさらに一段とグロテスクにカリカチュアして、チキのチャイルドキャッチャーを創造したんじゃないでしょうか? その証拠にチャイルドキャッチャーは劇中ちゃんとお菓子屋にバケてるし(笑)。

 

 

このお話は1971年に映画化されています。その時にミスター・ウォンカに扮したのはジーン・ワイルダーでした。そして何と、リメイク版の監督はな、なんとティム・バートンでウォンカ役はジョニー・デップ!!

これは『チャーリーとチョコレート工場』の1971年版映画とこの新作を観る必要がありますね(笑)。

 

またまた「なぜラストシーンのチキには翼が無いのか?」について

冒険でのチキには翼があります。それはポッツさんの空想だから彼の「常識」で組み立てられて、ギミック大好きな彼好みの説明がなされているからです。飛ぶときは羽とプロペラを使うし、海ではクッションとスクリューを使うといった感じで…。実際飛びそうにはないんですが、それはポッツさんの発明全般が役にたちそうにもない物ばかりなんで当然のことです(笑)。

 

それに対し、ラストで飛び上がるチキには翼が無い。これまで考えてきたことを重ね合わせると、ラストシーンのチキは金を稼ぎ、エディプスコンプレックスからも解放されて、大人になった二人が乗る車で、いわば「現実そのもの」の姿なんですね。それが「飛ぶ」というのはどういうことなのか?

これまでの考えにさらに加えて、最後にもう一つの解釈をお話ししましょう。

 

この物語の原作のタイトルは『チキチキバンバン 魔法の車』です。原作のチキはポッツさんの夢物語ではなく作品世界の現実の中で、意志を持ち、空を飛び、海を走ります。そしてその方法は、意志を持ったチキが自分で車体に改造を施し、いざという時にはポッツさんも知らないその仕掛けを駆使する、という物です。

つまり作者のイアン・フレミングは「魔法というものは機械仕掛けのものである」と解釈しているんですね。

そのギミックは後の映画版の『007/ゴールドフィンガー』のアストンマーチンDB5にもどこか似ていて、チキのベース車の関係者が後にアストンマーチンを作ることになる会社に参加したいう記録もあるようなので、非常に趣深いものがありますが、それは余談(笑)。

 

御存知のとおり、フレミングは『チキチキバンバン魔法の車』以外には、007シリーズとルポルタージュものを何本か書いただけで、魔法やファンタジーの領域には手を染めていません。

それに対し、脚本のロアルド・ダールは『チョコレート工場の謎』以外にもファンタジ-作品を多数描いています。

つまり「魔法」に関してはお手のものだったのです。

その彼がなぜか映画ではチキの冒険を空想の世界に閉じこめてしまったところに強い意図を感じます。

つまりダールにしてみたら「機械仕掛けの魔法なんか魔法ではない」ということなんじゃないでしょうか? 

魔法というのはそんなみみっちい説明や仕掛けが必要なものではなくて、もっと何でもありの世界だと考えていたように思います。

だからダールは最後、飛びっこないただの車のチキを「飛ばす」ことで、本当の魔法を描いたんじゃないでしょうか?

自分を、そして愛する相手を、心から信じることができたとき、本当の魔法は生まれる。

愛と信頼と自信が生み出す奇跡、それが魔法なんだと、あの翼の無いチキと、その上で朗らかに手を振るポッツさんとトゥルーリーの姿は我々に語りかけているような気がしてなりません。

 

 

あのラストは「愛」こそ「魔法」であり、全てを越えるものと歌い上げる讃歌であると同時に、ダールからフレミングへ叩きつけた作家としての挑戦状であり、ひょっとしたら『007は2度死ぬ』を原作とは似ても似つかぬ物に変えてしまったことへの罪滅ぼしでもあるんじゃないでしょうか? 

確かに映画の『チキチキバンバン』も原作とはかなり違ってはいるものの原作の精神をちゃんと尊重し、より夢のあるお話に変わっているのですから…。

最後の最後にそういう仕掛けをするなんて、シニカルな作風のダールにふさわしい悪戯だと思いませんか? ロアルド・ダールの最後に仕掛けた「予期せぬ出来事」(笑)によって、映画の『チキチキバンバン』にはより一層の深みが加わったのです。

 

 

さて、これでやっと「翼の無いチキの謎」について、自分なりに満足する答に到達できました。

リバイバルでの初見時にこの謎に気付いてから、およそ30年もかかったことになります。

長い長い道のりでしたが、やはり『チキチキバンバン』は単なる子供向けミュージカルには留まらない、本当に深い意味を持った傑作だったんだと改めて感じることができる、有意義な道程だったと思います。