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荒井由実『翳りゆく部屋』歌詞全文とその意味の考察

 先日、荒井由実(松任谷由実・ユーミン)の『翳りゆく部屋』を知った。友人がカラオケで歌ったのだ。良い歌だと思った。曲としても整っていると思った。魂のある歌だと思った。そこで早速批評を書こうという訳だ。昔からこの曲が好きだった人からすれば「なにを今さら……(苦笑)」といったところだろうが、まぁ許されよ。

 カラオケでこの歌を歌った友達が言うには、この曲はユーミンとしては決してメジャーではないけれど、熱烈なファンが意外と多くいる曲だということであった。なるほど、そうだろう。まさにこの歌はそういう歌だ。昨今流行の浅薄なガキの歌とは全く違う“真面目さ”がこの曲にはある。調べてみると1976年に出されたアルバム『YUMING BRAND』に収録されている。この曲の“真面目さ”はこの頃の時代背景によるところが大きいと思う。

 古き良き青春の昭和。イメージで言えば「左翼大学生の恋愛の終わり」が歌われているような感じだ。ちょっと高野悦子なんかを思い出す。時代的にはずれるが雰囲気はやや堀辰雄的でもあるように思う。これは「真面目」と言うよりも「真剣」と言った方がいいのかもしれない。何か非常な純粋さの上にのみ成り立つクリスタルガラスの真剣さ、そんな現代の二十歳前後には想像もできないであろうものがこの曲には織り込まれている。だが、青春期の「真剣さ」は美しいが、もろくはかないものである。それが分かる者は無意識にこの歌の深いドラマ性を聞き分けざるをえない。

 とうに「二十歳前後」ではないが、私自身、何度も繰り返してこの曲を聴いていると最近の自分は本当に真剣に生きているだろうか? という反省がしきりと胸にわき起こる。そうして、二十歳のころは少なくとも生皮を剥がされた柳の枝のように真剣に生きていたということを、ある種の苦しい感情と共に思い出すのだ。

 歌詞を全文引用してみる。

  窓辺においた椅子にもたれあなたは夕日みてた
  投げやりな別れの気配を横顔にただよわせ
  二人の言葉はあてもなく過ぎた日々をさまよう
  振り向けばドアのすき間から宵闇が忍びこむ
  どんな運命が愛を遠ざけたの
  輝きはもどらない 私がいま死んでも

  ランプを灯せば街はしずみ窓には部屋が映る
  冷たい壁に耳をあてて靴音を追いかけた
  どんな運命が愛を遠ざけたの
  輝きはもどらない 私がいま死んでも

  どんな運命が愛を遠ざけたの
  輝きはもどらない 私がいま死んでも

 

 前奏はパイプオルガンで始まる。それに続いて賛美歌を思わせるコーラスとピアノが続く。後半はストリングスも加わる。ドラムスやEギターの音も非常に良い味を出しているのだが、これらのクラシカルな楽器が醸し出す一種の神々しさがこの曲の雰囲気を決定的にしている。コード進行や各パートの動きもクラシック音楽のそれを意図的に取り入れているように思われる。そしてそれらの事を前提として聞くと(あるいは普通に聞いてもそうかも知れないが)どうしても気になるのが「輝きはもどらない 私がいま死んでも」の「私がいま死んでも」のフレーズである。

 どう考えてもこの「私がいま死んでも」は唐突だ。失恋した女性が「どんな運命が(あなたの)愛を遠ざけたの?」「輝きはもどらない……」と嘆く様子は容易に想像できる。だがその直後になぜ「私がいま死んでも」と続くのか。むろんこの「死」は主に自殺を意味しているのは明らかなのだが…。

 これについては荒井由実(松任谷由実)自身がインタビューに答えているそうだ。やはり気になったのか、この部分の意味を問うたインタビュアーに対して由実は、すでに終わってしまった二人の輝かしい愛の日々はもうどうしてももどらない、たとえ自分が死ぬことによって人生をリセットしたとしても…と言う意味であると説明したそうだ。そうして「この女性は死んでしまったのですか?」というインタビュアーの問いに対してそれを否定したそうである。だが……

 一般に失恋した女性はどの程度の落胆をするのだろう。これはことが極めて主観的であるので仮に統計的な調査をしてもあまり意味がないだろう。だが常識で考えて、おのずと「まぁこんな感じが普通じゃん?」といったラインは想定できよう。それで常識的に考えると、やはり「輝きはもどらない」の後の「私がいま死んでも」は唐突の感が否めない。いきなり「死」ななくてもいい…という気がしてしまうのだ。それではこのフレーズは主人公の一種の洒落、あるいは比喩か? それにしては曲のイメージが真剣過ぎる。さらに、このフレーズがこの歌の命であるのも明らかだし、意図的に倒置法が用いられている点もその印象を明らかに強めている。

 一般に詩に於いて、流れるように自然な言葉の連なりの中にふいに唐突なフレーズを用いるというのは、そこに何らかの特別な意味を込めたいと詩人が意図した時に限られる。むろん素人やボンクラ詩人の作った詩ならその限りではないが荒井由実は素人ではないし決してボンクラでもない。それなら、彼女がこの詩を書いた時に、彼女自身が「私がいま死んでも」に何らかの特別な思い入れを持っていたということは明らかである。

 ところで、歌に限らずおよそ芸術作品というものは一度作者の手を離れてしまえば勝手に一人歩きをするものであり、それは作者にも想像しきれないものであり、また御することもできない。作者が意識しなかった真実がそこに見出されることなどはよくあることなのだ。そしてその見出された真実に対して作者は何の力も持たない。つまり、先に荒井由実はインタビュアーの「この女性は死んでしまったのですか?」との問いを否定したと書いたが、それは作者の考えはそうであると言う以上の意味は持たないのだ。

 もし、この歌に登場する女性に自らの死という考えが全く無かったなら、「私がいま死んでも」という言葉は決して発想されなかっただろう。そこまではいい。真剣に愛した男性が自分の元を去ってしまえば、抱いている感情の延長線上の1つの仮定として自らの死を考えること自体に、まぁ多少の不自然さはあったとしても、その連想が不可能だと言う訳ではない。だがそれが単なる「仮定」では収まらないと判断せざるを得ないなら、問題の深刻さは一気に増大する。すなわち、この詩中の女性はどうしても実際に死んでしまったとしか思われない………と。もちろん荒井由実は健在でありミレニアムライブをやったりして相変わらずの女王様ぶりを表している。だが詩中の女性は荒井由実ではない。この歌を聴く者一人一人の心に生きている一女性である。あぁそれなら、やはり死んでしまっている…… とにかくこの一点が気になって気になって、私は危うく不眠症になるところだった………

 私の姉も、以前はずいぶんユーミンに凝っていた。私が「『翳りゆく部屋』のCD持ってる?」と聞くとヤレヤレと首をすくめて「当たり前じゃない!」と答えた。彼女の顔は、「お前もやっとユーミンが分かるようになったか」という哀れみと侮蔑と少しの愛情で苦笑いしていた。