キャンディーズ と セイントフォー

セイントフォーをご存じでしょうか?

1984年にデビューした4人組のアイドルグループです。デビュー前に主演映画が公開されたりとか、デビュープロジェクトに40億円かかったとかで話題になったり、曲中にバク宙を決めるなど派手なアクションで「女版少年隊」などと呼ばれたりと、デビュー当時は結構注目を集めました。

そのセイントフォーとキャンディーズに何の関係があるかというと・・・・
別にありません!おいらが両方のファンだったという以外には(^^;。

グループアイドル独特の雰囲気

いえいえ。『キャンディーズ・フォーエバー』などのライブ映像を見ていると、あの熱気、ノリ、雰囲気・・・どこかで体験したようなデジャブに襲われたのです。「ダンシィング・ジャンピング・ラブ」みたいな曲を唄っている場面なんか、特にそれを感じました。なんだろうなと考えた末、思い当たったのがセイントフォーのライブです。

セイントフォーのライブにもビデオで見るキャンディーズのライブに近い熱狂がありました。アーティスト系のライブでは絶対に体感できない、アイドルのコンサート独特のノリといいましょうか。それに、アイドルでもソロの場合とグループの場合ではまた微妙に雰囲気が違ってきますからね。

その点、キャンディーズとセイントフォーは3人と4人ということで、雰囲気も似てましたから(実際のキャンのライブは見ていないので、あくまでビデオで見た感想ですけど)。規模は全然違いましたけどね。キャンディーズは後楽園で5万人ですけど、セイントフォーは全盛期で日比谷野音が最大でした。

歌唱力でもキャンディーズにはかなわなかったでしょう。というか、当時の他のアイドルたちと比べても平均以下の歌唱力でした(^^;。ハモリも デビュー当時は2対2の二部コーラスが精一杯でしたし。2年目くらいになると4声のコーラスもなんとか出来るようになり、進歩は見られました。

でも振り付けはすごかったです。ピンクレディーの3倍くらいの運動量があるんじゃないかという激しいダンスで、よく息切れしないなと感心したものです。ウリのひとつがバク宙に代表されるアクロバチックなアクションですが、別に体操の得意な女の子を集めたわけではなく、ごく普通の女の子に2年間の特訓をさせた成果です。そのわりには結構失敗もしてましたから、どちらかというと本来は運動神経はあまりよくない方だったのではないかという気が・・・。

ファンもその辺はよくわかっていたはずで、さりげなくカッコ良くアクションを決める4人ではなく、いっぱいいっぱいのところで一生懸命頑張っている女の子の姿に感動していたのだと思います。たぶん事務所の思惑は前者になることだったのだと思いますけど(笑)。

意外な接点

唄は下手でしたけど、曲そのものはドラマチックでカッコイイ作品が多かったですね。そう思って改めてチェックしてみますと・・・

メインの作詞家はなんと森雪之丞。他にも、加瀬邦彦、舟山基紀、馬飼野康二、新田一郎など、キャンディーズでもお馴染みの面々が顔を揃えているではありませんか!
う~ん、こんなところに接点があったとは。“運命”とはいいませんが、不思議な巡り合わせを感じました。

まああちこちに作品を提供している売れっ子の作家さんたちですから、珍しくないといえばそうなんですが、それでもなんか嬉しく感じたのでした。 ちなみにデビュー前は加瀬邦彦のもとでボーカルレッスンを受けていたそうです。(最初は「ひどいもんだなぁ」と思ったけどずいぶん上手くなったねぇ・・・※加瀬邦彦氏談)

そうそう、トラブルで中止になってしまいましたが、両国国技館でのライブの予定もあったんですよ。

あと、セイントフォーは、その昔テレビでキャンディーズのライブ映像を見た時から1度は自分もやってみたいと憧れていた“あること”を体験させてくれた唯一の歌手でした。それは何か・・・ということは長くなるので次のコラムのお楽しみにしたいと思いま~す(^^)。

セイントフォー・ヒストリー

セイントフォーについてネットで検索してもキャンのようにファンサイトも存在しないようですし、ほとんどまともな情報もなく、2ちゃんねるあたりではでたらめな憶測が飛びかっています(「メンバーの1人が病死した」なんて書き込みも見ましたが完全に少女隊と勘違いしてますね)。元ファンとしてはとても淋しい状況なので、ここで少しご紹介させてください。

セイントフォー。84年11月「不思議Tokyoシンデレラ」でデビュー。
同時に主演映画「ザ・オーディション」が公開される。
左より 板谷祐三子、浜田範子、鈴木幸恵、岩間沙織

新人賞レース

85年の新人賞レースは(デビューは84年だが11月だったので85年組と同期になる)同期デビューに浅香唯、石野陽子、大西結花、工藤夕貴、斉藤由貴、佐野量子、中山美穂、橋本美加子、本田美奈子、松本典子、南野陽子、森口博子、芳本美代子などなど、そうそうたるメンバーが揃っていましたが、その中でセイントフォーと橋本美加子が上半期をリードしてました(多少ひいき目あり(笑))。

下半期に入って俄然頭角を現してきたのが本田美奈子で、結局新人賞関係は彼女が総なめ。しかし賞レースの総決算であるレコ大の最優秀新人賞はジャニーズ系の中村繁之が持って行きました。これはまったく「?」でしたね。ジャニーズ系では珍しいくらいに人気の出なかった人ですから。ジャニーズ事務所の裏パワーを実感した瞬間でした(笑)。

トラブルに巻き込まれて

最初の1年は順調でした。ファンも増え、ライブも盛り上がり、握手会等ではいつも長蛇の列。しかし密かにトラブルの芽は育っていたのです。

始まりは3枚目のシングル「ハイッ!先生」でした。それまでの2曲とは明らかに路線の違う、いかにもアイドルっぽいキャピキャピした曲。おいらたちファンも「おや?」と思ったものです。実はこの裏で、これまで通り派手なアクション路線で行きたい所属事務所と、正統派アイドル路線に転向したいレコード会社との思惑の違いが出てきたのです。契約レコード会社はリバスター音産。社長は橋幸夫でした( 「副社長」と紹介していたメディアもあり、どちらが正解かはわかりません)。

普通なら事務所の意向が通りそうなものですが、なにしろ所属事務所の日芸プロジェクトは、もともとタレント養成所で、自らタレントを抱えてプロデュースするのはセイントフォーが初めてという弱小プロダクション。

それとこれはおいらの想像ですが、プロデュースにも大きくレコード会社が関わるような契約になっていたのではと思うのです。というのはデビューにかかった費用。映画の制作費なども含めて40億と言われてましたがこれは誇大宣伝。実際は7億くらいだったとかいう話ですが、それでも莫大な額。このほとんどをレコード会社が負担してたのではと思うんですよね。あくまで想像ですけど。実際デビュー時の広告には大きく「橋幸夫プロデュース!」と謳っているものもありましたから。

しかし日芸の社長も信念を曲げず、溝は深まるばかり。そのうち今度は印税が振り込まれていないとかいう話も飛び出し、あげくにはリバスターがセイントフォーの引き抜きを画策していたことが発覚(85年末から年明けにかけての話です)。この時はリバスター側が担当社員の首を切ることでいったんは和解し、 契約も解消できることとなりました。

気分一新で夏の全国ツアーの日程も決まり(両国国技館や大阪城ホールなどかなり大規模なツアーになるはずでした)、 ニューシングルの発売もアナウンスされていましたが、一度は契約解消を認めたリバスター側が再びゴネ始め、完全に冷戦状態。いったん発表したツアーが中止になるという異常事態に発展。当然レコードも出せなくなりました。なにしろ契約期間はまだ1年近く残っているし、その間レコードを出さなくてはいけないという義務はレコード会社にはないので、完全な飼い殺し状態にされてしまいました。

※この辺の事情に関してリバスター側からの正式なコメントは出ておらず(少なくとも当時のおいらの耳には入ってこなかった)、あくまで新聞や週刊誌に書かれていたことと、日芸側から説明のあったことのみを元にしていることをお断りしておきます。


メンバー交代

それでもライブハウス等で精力的に活動を続けていたセイントフォー。彼女たちに残された活動の場はもうライブしかなかったのです。レコード化の予定は立たないものの、ライブでは新曲も発表して頑張っていました。

そんな中、事件は起きます。メンバー中、一番若く人気もあった板谷祐三子が他事務所に引き抜かれてしまったのです。当時高校3年生だった祐三子は、進学のため学業に専念したいと脱退を申し入れ、話し合いの結果、社長も他のメンバーも快く送り出しました。 これが86年春。そのわずか1,2ヶ月後に他の事務所からタレントとしてデビューしてしまったのです。これは非常にショッキングな出来事でした。芸能界のいやらしさをまざまざと見せつけられた気がしました。

そのため急遽、“セイントフォーの妹分”としてソロデビューする予定だったいわお潤(現・岩尾潤子=声優)をメンバーに加え、新生セイントフォーが誕生。しかし祐三子の抜けた穴は大きく、またレコードを出せない状況にも変わりはなく、人気は一気に下降線へ。テレビにもほとんど出なくなってしまいました。

いわお潤(左)の加入した新生セイントフォー。これはかなり貴重な写真だと思います。
おいらも潤の入った写真はこれしか持ってません。

※ 余談ですが、いわお潤はメンバーには入ったもののレコードは出していないので、正式にはデビューはしていなかったことになります。解散後タレントとして一番成功したのは彼女。声優としてかなりの人気を得ていると聞きます。それに引き替え現在では「B級アイドル」の代表のように言われることの多いセイントフォー。でも彼女は隠すことなく、プロフィールにも堂々と「元セイントフォー」と書いているところには好感を持っています。

そして解散へ

そんな状況で1年近くも活動を続けたセイントフォー。しかしリバスターとのトラブルは裁判沙汰になり泥沼化する一方。そしてついに解散宣言となります。86年 12月のライブの時でした。

その中でこれまでの経緯を説明。

「私たち、解散したくてするんじゃないんです。ただ唄が好きで、ずっと唄っていたいだけだったのに・・・」

との言葉に涙が出ました。大人のゴタゴタに対する抗議の意味の解散なのだと言っていました。

ラストライブは「旅立ちコンサート」と銘打たれ、87年1月18日に日仏会館で行われました。このコンサートにはいわお潤は出演せず、オリジナルメンバー3人のみで行われました。ファンもその措置には無言で納得していたようです。

アンコールまでの34曲、一切MCなしでひたすら歌い続ける彼女たちと、声の限りに声援を送り、紙テープを投げ続けるファンたち。あんな気迫に満ちたライブは後にも先にもあれっきりです。

アンコールで初めて口を開いた3人。

「きっとみんなの前に帰ってくる。だって私たちの居場所はみんなの前しかないんだもん!」
そう言って舞台から消えていったセイントフォー。そして約束通り、沙織は女優として、範子・幸恵は新ユニット「ピンクジャガー」として、再び戻ってくることになります・・・

以上、セイントフォー・ヒストリーでした。

こちらの記事もご参照ください。

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